平成29年6月18日 第28回Dr・ジュノー記念祭が開催されます。
「ジュノー博士のお陰で救われた被爆者は2万人とも3万人とも」と語り継がれる広島の恩人、
スイス赤十字のマルセル・ジュノー博士。
広島に原爆が投下された1945年8月6日から1カ月後に現地を訪れた初めての外国人医師でした。
目次
Dr・ジュノー博士って?
マルセル・ジュノー博士は、赤十字国際委員会の駐日主席代表
(日本に来て赤十字の活動をする偉い人)に就任して、
広島に原爆が落とされた後、たくさんの薬や、医療材料を届けてくれた
【ヒロシマの恩人】です。
原爆の被害にあったその頃の広島は、家も病院も壊れてしまって、
お医者さんも看護婦さんも、自分たちが傷ついていながら一生懸命に
けが人や病人の治療をしたけど、焼け野原の広島にはほとんど
薬はなかったのです。
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1904年5月14日:スイスのヌーシャテル州ラ・ショー=ド=フォンに生まれる。
1935年10月:赤十字国際委員会の要請を受けて派遣員となり、
エチオピアへ赴く(第二次エチオピア戦争)1936年7月: 赤十字国際委員会の要請を受けて派遣員となり、
スペインへ赴く(スペイン内戦)1939年9月:赤十字国際委員会の要請を受けて兵役義務を免除され、
派遣員となる。1961年6月16日: スイスにて没。
1979年: 広島平和記念公園に顕彰記念碑が建立。
Dr・ジュノーのヒロシマへの功績
この様子を知ったDr・ジュノーは、連合国司令官のマッカーサーに薬の援助をお願いし、
自分も救援活動に参加するために広島に来られました。
トラックで運ばれた15トンの薬には、それまで日本にはなかったペニシリンなどもあって、
その効き目にみんな驚き救われた被爆者が2万人~3万人とも言われています。
Dr・ジュノーの功績をたたえて
Dr・ジュノーはスペイン内戦の際にはフランコ政権側から、
第二次世界大戦時にはドイツ側から危険分子とみなされており、
ゲシュタポの拘束を受けたこともあるようです。
広島の惨状を知った際にはいち早くGHQに交渉して医療物資を提供させるなど
交渉人としても卓越した人物でした。
広島にいた間に、たくさんの救護所を廻って傷ついた人の治療をされ、
スイスに帰ってからは「原爆を人間は使ってはいけない!」と
世界中に呼びかけられました。
ジュノーさんのことを忘れないこと、二度と戦争がおきないこと、
平和な世界になることを誓うために、1979年に平和公園の近くに顕彰碑が建てられました。
第28囘 Dr・ジュノー記念祭開催
1979年に広島県医師会、日本赤十字社が中心となって建立されました。
顕彰碑のものと同じブロンズ製のレリーフをはめ込んだ碑が、
スイスのジュネーヴ市にも2006年建立されたようです。
1990年からジュノー忌(6月16日)頃、毎年ジュノー記念祭を開催され、
今年第28回のジュノー記念祭が開催されます。
第28回ジュノー記念祭開催
開催日: 6月18日(日)午前10:00~11:30
場所: 平和資料館東館地下1F メモリアルホール
出演団体:広島少年合唱隊・ガールスカウト広島県連盟
日本ボーイスカウト広島県連盟・府中緑が丘中学校吹奏楽部
事務局: 広島県医師会 広島市東区二葉の里3-2-3 082-568-1511
ドクター・ジュノーの戦い―エチオピアの毒ガスからヒロシマの原爆まで
マルセル・ジュノー(著)、丸山幹正(訳)『ドクター・ジュノーの戦い 増補版』(勁草書房、1991年)
日本テレビ系列で放送されていた『知ってるつもり?!』でも、生涯や功績が取り上げられました。
【ヒロシマの恩人】として参列してきたいと思います。