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被爆ピアノが奏でる平和への願い映画化!大杉漣矢川光則役で主演だった!

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広島に投下された原爆で被爆した被爆ピアノを修理再生し全国でコンサートを

開いている広島市のピアノ調律師、矢川光則さん(65)の活動をテーマにした

映画化を計画している長岡市出身の映画監督、五藤利弘さんは、

民放ドキュメンタリー番組の取材で矢川さんと知り合い、被爆ピアノが奏でる

音色や自ら4トントラックで各地を巡る矢川さんの活動に感銘され、
映画化を打診されたそうです。

 

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大杉漣主演「お母さんの被爆ピアノ」

大杉漣

 

タイトルは「お母さんの被爆ピアノ」(仮称)

 

現在、脚本を執筆中で、矢川さんが演奏先でさまざまな人たちと出会い、
被爆ピアノを通して物語が展開されていくという物語で・・・

 

矢川さん役には、2月21日に急性心不全のため66歳の若さで急逝した
俳優・大杉漣さんが、来夏公開予定の映画で主演を務める予定だったそうです。

 

希代のバイプレーヤーとして作品を支え続けてきた大杉漣さんにとって、
2008年公開の「ネコナデ」以来、11年ぶりの主演作となるはずだったのですが・・・

 

矢川さんによると、すでに代役も決定し、撮影は予定通り今夏に開始され、
来夏には公開する運びだそうです。

 

代役については、

「まだ大杉さんが亡くなったばかりで、ご冥福をお祈りしているところですので…」
と明かされなかったようですが・・・
「きっと大杉さんも、天国で見守ってくださっていると思います」

と語っていらっしゃいます。

作品は、大杉さんの遺志を継いで、予定通り公開されるそうです。

 

好きな俳優さんでしたので、突然の急逝にただただ愕然とし・・・
心よりのご冥福をお祈りします。

 

被爆ピアノとは?

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昭和20年(1945年)8月6日、午前8時15分、アメリカ軍の原爆搭載機B29エノラ・ゲイ号が
投下した原子爆弾(原爆)は、広島の上空580mで炸裂しました。

 

爆発時の熱線と爆風は一瞬のうちに広島をつつみ、爆心地周辺の地上の温度は、
3000~4000度に達し、半径約2Km内の建物は、爆風でほとんどがなぎ倒され、
焼き尽くされ、多くの人々が命をおとしました。
(原爆が炸裂したときの広島には、約35万の人々がいたと考えられています)

 

披露されたピアノは爆心から1.8キロの民家で被爆した、1932年ヤマハ製の
アップライトピアノです。

 
所有者の名前から「ミサコのピアノ」と呼ばれているようです。

 
爆風で飛び散ったガラス片による傷が残る被爆ピアノは、表面は爆風を受けて
傷付いた当時のままですが、演奏できるよう矢川さんが修理されました。

矢川光則さんプロフィール

原爆に遭った「被爆ピアノ」のコンサートを全国各地で開催している被爆2世の調律師、
矢川光則さん(広島市安佐南区)が、このピアノに出会ったのは、
平成17年(2005年)7月のことです。

 

それまで、矢川さんは調律の仕事をするかたわら、こわれたり使われなくなったピアノをゆずりうけ、
修理した後、ピアノのない施設に寄付したり外国に送る『ピアノのリサイクル活動』をされていました。

 

それは『資源を守ろう、物を大事にしよう』といわれているこの時代にもかかわらず、
まだ使えるピアノが、持ち主の事情で捨てられていく姿を数多くみてきたからでした。

 
この活動のなかで、被爆したピアノにめぐりあったのです。

 
持ち主の女性からピアノの思い出話をきいたり、あらためて戦争や原爆の事を調べるうちに、
それまで平和運動に関わりのなかった矢川さんの心に、変化があらわれ、

やがて・・・・それは・・・

 『被爆したピアノの音色を多くの人に聞いてもらう事で、
平和を考えるきっかけづくりができないだろうか』

という思いに到達します。

 
この背景には、数年前に亡くなった矢川さんの父親の存在がありました。

 
矢川さんの父親(矢川正行さん)は、昭和20年のあの日、
爆心地から約800mの場所で被爆されました。

 
崩れた建物のわずかなすきまにとじこめられたことで、九死に一生をえたのです。
しかし戦後は体調をくずし、無理ができない体になりました。

 
これは、原爆が炸裂した時に放出した放射線をあびたことが影響していると考えられました。
原爆は一瞬にして多くの人々の命をうばうだけではなく、
長い年月をかけて、さらにたくさんの人々の健康をもむしばんでいったのです。

 

このピアノが工房にやってきたとき、矢川さんは、子どものころに正行さんから聞いた
被爆の体験談や、それを語るときの正行さんの苦しそうな表情がよみがえってきたそうです。

 

被爆ピアノ平和コンサート

被爆ピアノ
『被爆ピアノ平和コンサート』の輪は、今、全国に広がりつつあります。

 
南は沖縄から北は北海道まで、これまでに開かれたコンサートは200回をこえます。
 
今年は100回をこえるそうです。

 
修学旅行で広島を訪れる子どもたちの為に、コンサートが企画される機会もふえました。

 
また、毎年8月6日には、広島平和記念資料館(広島市・平和記念公園内)
東館の広場で『アオギリ平和コンサート』を開くようになりました。

 
この場所には、千田町のピアノと同じように原爆をのりこえ、
現在も青々した葉をしげらせているアオギリの木(被爆アオギリ)があります。

 

平和を祈り、世界中からたくさんの人々が広島を訪れるこの日、この場所で
コンサートをする事を矢川さんは今後も続けて行きたいと考えていらっしゃいます。

傷だらけのピアノで演奏する音色、

『音楽は世界共通の言葉です。心をうるおすような被爆ピアノの音色を、
もっともっと多くの人に聞いてもらいたい』
「平和の種まき」と称した被爆ピアノの演奏会は全国で1500回以上になるという。
「被爆した楽器ということで弾く人も聴く人も思いをはせやすい。
平和の大切さを伝えるだけでなく、生きる人に力を与えてくれる」

矢川さんの夢はますますふくらみます。

 
この「被爆ピアノ」は、当時、広島市内の千田町に住んでいた、
ある少女の家で使われていたものです。

 
爆心地からの距離は約1.8Km。この家も爆風で壊れ、焼け落ちてもおかしくない位置に
あったといえますが、当時にはめずらしいコンクリートの頑丈なつくりだった事や、
家の向きなどが幸いしたのか、屋根が飛び、天井が落ちるなどの被害はあったものの、
なぎ倒されることはまぬがれたのでした。

 
ピアノも爆風で壁にたたきつけられ、傷だらけになりましたが、
家がなんとかもちこたえたおかげで、こうして今に残ったのです。

 

13年8月6日に平和記念公園(広島市中区)で初めて被爆ピアノを使った
演奏会を開き、全国を巡回するようになりました。

 

現在、被爆者ら元の持ち主から託された被爆ピアノ6台を修復して所有し、
現在もピアノ工房を営む傍ら毎年100回以上の演奏会を開催して
平和を訴えていらっしゃいます。

 
大杉漣さんも「これなら私も演じたい」と快諾したという“幻の主演映画”
「お母さんの被爆ピアノ」(仮)は今夏のクランクインを予定されていたようですが・・・

 
大杉漣さんのご冥福を心よりお祈りし、「お母さんの被爆ピアノ」の
公開を楽しみにしています。

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