大久野島のうさぎと廃墟と歴史に出会える島で日帰りランチ旅が人気

大久野島うさぎ

 

「ウサギの島」外国人観光客らにこう呼ばれ、人気を集める周囲4キロほどの

小さな島が瀬戸内海にあります。

コロナウイルスの感染拡大による外出自粛を受け観光客減少のため

ウサギの栄養状態を心配する声が上がっているようです。

野生のウサギと出会えるスポットとして、来訪客はここ10年で約2倍に増加し、

島を管理する休暇村は、道路周辺でのえさやり禁止を呼びかける看板を

増やすなどして、環境と観光の両立を図っている島です。

 

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地図から消された島

この島は昭和初期「地図から消された島」で、陸軍の毒ガス工場があったため
機密性から秘匿され当時の一般向け地図においてこの一帯は空白地域として
扱われたと言われています。

 

明治・大正時代から芸予要塞司令部による検閲が入っており,地図では
要塞秘匿のため来島海峡からこの島付近一帯まで赤く塗り潰され、
地図にはない島だったようです。

 

大久野島は1929年から終戦まで、旧陸軍の毒ガス工場がありました。

 

戦後は工場跡を米軍が弾薬庫として利用し、57年に日本へ返還され、
63年には休暇村が開業し、観光開発が進められてきました。

 

大久野島の歴史を紐解いてみると

大久野島昭和4年(1929年)から昭和20年(1945年)終戦まで、この島では
大日本帝国陸軍によって秘密裏に毒ガスが製造されていた。

この時代まで島内には民家7戸・住人数10人がおり、農耕を営んでいたが、
毒ガスの島となった時に 強制退去となってしまう。

作られていた毒ガスの種類は血液剤・催涙剤・糜爛剤・嘔吐剤の4種で、
太平洋戦争末期には風船爆弾の風船部分も作られていた。

戦後、進駐軍が接収しこの島で無毒化処理されたが、
毒ガスの影響は島に残り現在でも島内および周辺海域で、
その残存兵器が見つかっている。

また毒ガスの製造および戦後処理に従事したものは、
現在でもその障害に悩まされている。(大久野島資料館より)

 

開館時間   9:00 – 16:30
休館日     年末年始
入館料    19歳以上 100円、18歳以下 50円、団体割引あり
住所     広島県竹原市忠海町大久野島

朝鮮戦争が始まると再びアメリカ軍が接収し、島内の建物を弾薬庫として
用いたのです。

 

彼らは昭和25年(1950年)から昭和30年(1955年)まで接収し続けました。

 

広島の心霊スポット

戦時中に毒ガスを製造島と呼ばれ300人もの人が死亡した大久野島は、

 

多くの廃墟とトンネルが点在し、廃墟付近で撮影をすると毒ガス時、
亡くなった兵隊なのか心霊写真が撮れるという噂もあります。

 

 

のちにほぼ全島域を大蔵省(現財務省)、灯台付近のみ運輸省(現国土交通省)が
所管することになり、ほぼ全島域が環境省所有の国有地であり・・・

 

一般財団法人休暇村協会が管理する観光及び保養地休暇村「大久野島」には、
2012年で人口は26人民家は存在せず、全員その従業員です。

 

8羽のウサギが・・今は?

大久野島」のうさぎ

 

きっかけは国民休暇村になった際に島のマスコット的な存在として動物を
入れようという話になり、サルやシカなど検討された中でウサギに決まった
と言われています。

 

71年に地元の小学校で飼っていた8羽が放され、野生化した説が有力と言われています。

 

環境省大久野島ビジターセンターによると、2007年は約300羽だったのが、
13年の調査では約700羽になり、その後も増え続けているとみられています。

 

すべて日本の侵略的外来種ワースト100にも指定されているアナウサギだそうです。

戦前動物実験で導入されたウサギが繁殖し現在生息している、
ウサギを見て毒ガスの歴史を思い出してもらうよう戦後新たに導入した、
などウサギと毒ガスを関連付けた説あるがこれらは全て嘘である。

 

戦前および戦中、毒ガスの動物実験用にウサギが飼われ、
戦中・戦後には食用にもされたといいます。

 

ただし戦後の毒ガス関連処理の際に全羽殺傷処分されたため、
当時のウサギの子孫は現在いないそうです。

 

地図にない島がリゾートに生まれ変わった

https://twitter.com/utajima/status/1290632676823556097?s=20

 

島内への一般車両通行不可こうしたことから携帯電話・Wi-Fiなどの
情報ネットワーク網は構築されています。

 

ただし上水道は本州と繋がっておらず島外から船で運ばれる形を
とっているとのこと。

 

資料によっては行政管理上無人島であるとするものもあるそうですが・・

 

昭和初期に国内で2箇所・大日本帝国陸軍では唯一の毒ガス製造工場があった大久野島は、
朝鮮特需から高度経済成長へと移っていった昭和30年代、生活の安定により国内では
観光の大衆化が進み野外活動など、新たなレクリェーションが生まれました。

 

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そして、都市環境の悪化により自然志向が高まっていったのです。

 

こうした中で自然公園法制定、厚生省(現厚生労働省)により集団活動施設の新規整備など
国立公園・国定公園の整備造成が進んだのです。
これが後の「国民休暇村」整備計画となりました。

 

 

昭和35年(1960年)厚生省及び広島県は大久野島への国民休暇村整備を公表
昭和36年(1961年)財団法人国民休暇村協会が設立されると協会により建設は進み、
島の99.7%・灯台以外の土地遺構は厚生省所管となり、
昭和38年(1963年)7月開場した。
総事業費7億7,300万円(当時)。
昭和46年(1971年)環境庁(現環境省) が設置されると
国民休暇村は厚生省から環境庁に移管され、
平成13年(2001年)国民休暇村は現在の休暇村に改称(大久野島資料)

大久野島になぜ・・ウサギが?

 

大久野島

島には約700羽ウサギがいると言われています。

 

ウサギの島ブーム以前は、島の存在はほぼ地元広島の人しか知られていなかったのです。

 

2001年時点での休暇村宿泊施設利用率は50%以下だった・・・

 

特にウサギの島として日本のみならず海外にまで知られることになったのは
2010年代以降のことだそうです。

うさぎ島が有名になったきっかけは・・

 

 

きっかけは2011年干支が卯だった年に日本のメディアが紹介したこと、
同年日本の旅行会社が国内外向けにウサギをテーマとした旅行プランを企画したこと、
そして2013年ごろ海外のニュースサイトが動画付きで紹介したことで一気に知れ渡り、

年間来島客は
2010年度で約152,000人
2014年に約186,000人
外国人に至っては
2013年で378人
2014年5,564人
2015年17,215人

と大幅に増えているのです。

大久野島うさぎに会いにゆくアクセス

大久野島

休暇村大久野島敷地面積71ha。
宿舎区域1.2ha、園区域4.6ha
最寄りの駅である忠海駅から約4km船で約15分

全国の休暇村の中でも屈指の立地条件ですね。

 

宿泊施設やキャンプ場・海水浴場などのレジャー・レクリエーション施設があり、
加えて温泉があるのが特徴で、泉質は放射能泉 日帰り入浴できます。

 

ビジターセンターでは瀬戸内海の歴史も学べるし、軍事遺構が残されており、
フィールドワークでその特異な歴史を学ぶことができます。

休暇村大久野島へのアクセス・ホテルのご案内

次第にウサギ好きの人気スポットとして知られるようになり、近年は外国人観光客が
動画や投稿をユーチューブやブログに相次ぎ掲載され、

 

「Rabbit Island」と紹介され、知名度を上げ、島を訪れる観光客は
2005年の約13万6千人から、15年には過去最多の約25万4千人に増加しました。

 

うち外国人客は約1万7千人で、13年の約45倍と急増しているのです。

 

日帰りランチでも人気を呼んでいます。

 

今・・・廃墟となった毒ガスの過去の歴史を訪ね、うさぎと戯れ

 

心の片隅に忘れてはならない歴史のページを刻んで下さい。

 

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